ちょっとした歴史
                            我家と当地区のちょっとした歴史を紹介します。  ホームへ戻る


 
 我家は先祖代々の百姓です。
私で9代目といいますから、驚きです。もちろん戦前は小作の水のみ百姓だったそうですが、
戦後の農地開放で自分の土地を持つことができました。
 農家は今でも、本家、分家というつながりがあります。しかし私の家に本家はありません。
かなり昔、本家は酒と女に溺れ、田畑を手放し、どこかへ去って行ったそうです。
私も気をつけねばなりません。
 下條という名字は珍しいかもしれませんが、昔阿賀野川沿いの下條という地区から移り住んだから、
と聞いています。

 
昔、水のみ百姓、現在、酒のみ百姓です。

曾祖母     祖母
我家では昔より写真を撮るという習慣が無かったようです。
そして女系家族で、男の写真はほとんどありません。
(今でも変わらない)
祖母は婿取りだと聞いています。
昔は写真は贅沢だったのでしょう。
                 手作業の時代
昭和40年代前半まではこのように
全て手作業で農作業は行われていました。
約40年の時間経過で農業は大きく変わったと
言えるでしょう。
そして今、違う方向で大きく変わろうとしています。
経営体が個人から団体、法人化へと
変わろうとしているのです。

                           新潟地震
 昭和39年6月16日午後1時すぎ、新潟県粟島沖を震源とする
マグニチュード7.5の地震が発生。世に言う新潟地震です。
 新潟市内では火災が発生、昭和大橋の橋桁の落下、昭和石油のタンク炎上、
液状化によるビルの倒壊、亀裂など大災害となりました。
 私は小学生だったのですが、この日は学校が早上がりでした。
外に遊んでいた時地震にあったのです。
家がゆれ、池が波立ち、山がゆれた。足元に地割れが走る。
あの時の事は鮮明に覚えています。

2年連続の大水害に見舞われる

   加治川の堤防が決壊した

    水が引いても一面泥の海
昭和41年7月17日と翌年42年8月28日、二年に渡り大水害が襲いました。
二年連続加治川の堤防は決壊、田畑は一面泥の海と化したのです。
この時の平均降雨量は500mm、多いところは700mmを越えていたといいます。
蒲原平野を濁流が襲い、収穫前の稲は壊滅的な打撃を受けました。
この二年連続の水害後、加治川は大きく変わったのです。

                              悲 運 の 桜
 水害前までは、加治川の桜は長堤十里と歌われ、日本一、いや世界一の桜と言われていました。
この桜は大正天皇即位記念として加治川堤防に植えられたといわれています。
太平洋戦争の名将、山本五十六も花見に来たといわれています。
 私も小学校の頃は、加治川へ花見遠足が毎年行われていて、楽しみなものでした。
鉄橋脇には臨時の停車場が作られ、遠方より多くの花見客で賑わいました。
農家も花見の時は仕事をやめ、楽しんだといわれています。
 しかし2年連続の大水害での破提の原因が、この老木化した桜の根にある、とのことから、
また、大幅な加治川の改修により、全て切り倒されることになったのです。

                                                         甦 る 桜
 加治川の堤防に桜を、の機運が盛り上がり、再び桜を植栽することになりました。
桜の苗木はオーナー制をとり、全国からオーナーを募集。賛同して下さった方々の基金により、
また加治川に桜が甦りました。残雪の山並みに桜の花が映えるのもまじかです。
 まだ小さいですが、近い将来往年の桜並木に勝るとも劣らない、素晴らしい桜の回廊になる事でしょう。
 それと平行して、大峰山の国の天然記念物の桜「橡平桜樹林」の保護育成も始まっています。

このページの写真の一部の版権は、新潟日報社と加治川村桜の里作りの会にあります

コシヒカリの産直 そうえん農場は北越後、加治川村に米作りをしている百姓です
〒959-2411 新潟県北蒲原郡加治川村横岡1910−1
下條荘市
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